★MY「ウルヴァリン:X−MEN ZERO」ファイナル・レビュー

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2009/10/11 23:04

すぴ。

「ウルヴァリン:X−MEN ZERO」ほぼ日本での劇場公開も
終わったので、最後のレビューです。
劇場パンフレットや雑誌、そしてこのブログのレビューでは、
ヒュー・ジャックマン氏のかっこよさについてさんざん書いてきたので、
今回はそれとは異なる視点で書いてみます。

僕は、今までのX−MEN映画とこの「ウルヴァリン:X−MEN ZERO」の違いは、
今回の「ウルヴァリン:X−MEN ZERO」は、それまでの映画三部作ほど“ミュータントであるがゆえの苦悩”というのが全面に出てこないことだと思います。そして、よく考えてみれば、ウルヴァリンというキャラは、過去3作においても、他のキャラほど、それほどミュータントであるがゆえの苦悩というのを現してこなかったキャラのような気がするのです。それが、一番如実だったのは、「X−MEN:ファイナル・ディシジョン」で、ミュータントを普通の人間に変えるキュアの存在をめぐって、普通になりたい!と熱望するミュータントと、ミュータントであることの誇りをもちそれを拒絶する者との対立がうまれたとき、それに対し、極めて中立というか。どちらでもなかったのがウルヴァリンでした。だから、キュアを求めて、学園を去ろうとするローグをウルヴァリンはひきとめない。「それが、お前の本当の気持ちなら、行くがいい」(僕は、このときのローガン=ウルヴァリンとローグのやりとりは、X−MEN映画史に残る名シーンだと思う)そう、ウルヴァリンにとって、自分は自分であることが重要であり、自分が人間かミュータントであるか、というのはさほど重要なことではなかったのでしょう。
そして、ウルヴァリンは、正義のためでも、自分の主義主張のためでもなく、仲間のために、その爪をぬきます。何が、真実で、正しいかなんかどうでもいい。彼が心を許した
友のために、戦う、、それがウルヴァリンなのです。

今回のウルヴァリン:X−MEN ZERO」を観たときに、ローガンのこの気持ちがわかるような気がしたのです。ローガンは、ずっと戦争の中を生きてきた。
だから、人間がいかに、イデオロギーや宗教、利権等の“立場”が違う、、というだけで戦ってしまう生き物なのかわかってきたのでしょう。彼にとって、ミュータントと人間の対立も、さほど驚くに値しないことなのかもしれません。そして、記憶を失っても、長年の戦争人生で、うえつけられたこの真理は、ずっとしみついたままだったのでしょう。

じゃあ、なぜずっと戦争ばかり参加していたのか?それはわかりません。もしかすると、あの兄弟は、自分の死に場所を探していたのかもしれないし、不死だからこそ“生と死”を実感できる場所をもとめていたのかもしれないし、自分と同じような仲間を探していたのかもしれません。

さて、ケイラが生きていた事は、“ケイラが、ビクターに殺された”よりも、ある意味、残酷な事実でした。そこで、見せるローガンの悲しそうな顔。僕らが、ウルヴァリンというキャラに魅力を感じるのは、このペーソスではないかと思うのです。ワイルドで怖いけれど、どこか人情味があって、そして、いつも人生くらっていて、思わず同情してしまう、、のです。あのシーンのながれで、ケイラの催眠術は、ビクターに効かないことが示されます。ということは、兄弟であり、似たような能力を持つローガンにも、多分、ケイラの催眠術は利かないのでしょう。だから、ローガンは決して、ケイラに操られ、彼女を愛するようになったのではない。彼女は(結果的には)悪い女だったけれど、ローガンが「自らの意志で愛した女」であり、だからこそ、例え「自分をだました女」であっても、「自分が愛した女」であったことからこそ、ケイラの叫びにローガンは、自らの爪をぬくのです。

ケイラ、そしてX−MEN映画におけるジーンと、ローガンは、本当に“大変な女”を好きになり、そしてとんでもない目に会います。多分、次の「ウルヴァリン2」でも、日本女性を愛し、ひどい目にあうのでしょう。でも、そこが、アダマンチウムの爪が豪快にあばれまくるスーパー・アクションと並んで、このヒーローの物語に僕らがひきつけられる魅力でもあり、思わず応援したくなるポイントでもあるのです。

恐らく「ウルヴァリン2」は、3年後の2012年だと思います。「アベンジャーズ」公開の年ですね。そのとき、また彼との再会が本当に楽しみです!

SNIKT!